カテゴリ:理想探求
前回の尾道歩きの記事で、偶然、自然、必然の大切さに気がついたわけだけど、
実は、これは僕自身がずっと考えてきたことでもある、表現作品を作る際にいつも意識すべきリアリティに繋がることでもある。
おさらいになるけれど、映像作品の場合、必ずしも表現上のリアリティを追求すればいいというものではない。
実写映像であってもカメラが存在するという、現実とは異なる視点、客の目がある以上、それはどうがんばっても舞台に他ならないからだ。リアリティを追求しても、実写映像であっても決して現実にはならないし、リアリティの追求は別な要素とのトレードオフになることが多く、そればかり追求すると作品として成立しなくなってしまうかも知れないからだ。
だから映像制作をする場合、リアリティの度合い、バランスを意識してコントロールすることがとても大切なわけだ。
しかし、このリアリティのバランスを調製すると言うこと、つまり、ある程度リアリティを押さえよう、という考え方をしなければならない局面は非常に大きな危険を伴うと思う。
そうして出来た表現は、この程度でいいだろう、という発想で作られた作品との区別が付かなくなる可能性があるからだ。もし、本当にいい加減さを伴った作品であれば、人生の時間の一部を割いてそれを見る人に対して不誠実で大変失礼な話だと思う。
表現においてリアリティを追求するというのは相手に対する誠意なのではないだろうか。

More:[未熟な観光地]
前回の尾道歩きの記事で、偶然、自然、必然の大切さに気がついたわけだけど、
実は、これは僕自身がずっと考えてきたことでもある、表現作品を作る際にいつも意識すべきリアリティに繋がることでもある。
おさらいになるけれど、映像作品の場合、必ずしも表現上のリアリティを追求すればいいというものではない。
実写映像であってもカメラが存在するという、現実とは異なる視点、客の目がある以上、それはどうがんばっても舞台に他ならないからだ。リアリティを追求しても、実写映像であっても決して現実にはならないし、リアリティの追求は別な要素とのトレードオフになることが多く、そればかり追求すると作品として成立しなくなってしまうかも知れないからだ。
だから映像制作をする場合、リアリティの度合い、バランスを意識してコントロールすることがとても大切なわけだ。
しかし、このリアリティのバランスを調製すると言うこと、つまり、ある程度リアリティを押さえよう、という考え方をしなければならない局面は非常に大きな危険を伴うと思う。
そうして出来た表現は、この程度でいいだろう、という発想で作られた作品との区別が付かなくなる可能性があるからだ。もし、本当にいい加減さを伴った作品であれば、人生の時間の一部を割いてそれを見る人に対して不誠実で大変失礼な話だと思う。
表現においてリアリティを追求するというのは相手に対する誠意なのではないだろうか。

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